学校給食ニュース
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記念講演 「食・ねぐら・愛」  本間千枝子さん

学校給食全国集会 結果報告
2002年2月25日開催しました


 今年も、学校給食全国集会を東京都千代田区の日本教育会館にて2月25日に開催しました。この学校給食全国集会は、全日本自治団体労働組合 (自治労)、日本教職員組合(日教組)、日本消費者連盟、 全国学校給食を考える会の4団体が1985年の旧文部省による学校給食合理化通知をうけて、 子ども達のための学校給食実現を目指し毎年開催しているものです。全国より、調理員、栄養士、保護者、市民運動関係者らが集まり、 各地の事例報告などを通じて、運動の広がりを作っています。この学校給食ニュースも、学校給食全国集会から生まれました。
 今年の集会は、約700人が集まりました。記念講演に、東京都三鷹市の教育委員長であり、食の随筆家でもある本間千枝子さん、 山形県高畠町の元教育委員長で、有機農業生産者、農民詩人の星寛治さんにご登場いただきました。三鷹市では、 学校給食を総合教育に生かした例があり、高畠町は地産地消に地域ぐるみで取り組み、質の高い学校給食を実践されています。 その背景にある考え方について、お話しいただきました。
 また、事例発表は、福岡県穂波町の調理員による学童保育所での給食提供と、 福島県のある市で導入が計画されている栄養士の民間委託化についての報告が寄せられました。ふたつの事例とも、各地で関心が高く、 集会では活発な意見交換がよせられました。
 この講演内容と、事例報告については、学校給食ニュース紙上で今後順次掲載させていただきます。
 今号は、本間千枝子さんの講演を掲載します。(学校給食ニュース2002年3月号)

 

記念講演 「食・ねぐら・愛」  本間千枝子さん


 最近の日本で、子どもの周辺をめぐる不祥事が数々と起こっています。日々の食卓をながめてみますと、 子ども達の成長にとって決定的な場でありながら、うっかりすると毒まで盛られかねない状況です。日本では、 今の状況にさきがけて本当に毒を盛られた水俣病があったことを忘れてはならないと思います。
 私は、ダイオキシン、PCB、環境ホルモン、遺伝子組み換え食品の問題や、 古くて新しい化学肥料と農薬を多用する農業の問題を盛り込んだ1冊の本を1999年に出しました。題名は「毒を盛るか、愛を盛るか」です。 愛を盛るべき食卓に毒が盛られている、そんな気がしてなりません。
 食の問題もさることながら、とくに東京では、ヒートアイランドの問題もあります。私の住む三鷹市では、 教室が40度にもなる中で多くの古い校舎の教室に冷房が入れられません。一極集中した結果のヒートアイランド化が起こっています。 ビルの超高層化が進められていますが、人も水もすべて電力を使って出入りすることになります。これが人間に優しい都市と言えるのでしょうか。
 子ども達が住む環境をお役所まかせにしていられません。
 私は8年前から三鷹市で教育委員をつとめています。現在は、教育委員長をおおせつかっています。 文部科学省が総合的学習の授業を各学校独自のプログラムで、地域の人々の力を導入して展開するという方針を打ち出してから、 市内のある小学校の校長先生に、「本間先生も子ども達のために何か考えてください」と宿題をいただきました。
 考えてみますと、私は戦争前の生まれです。戦争中に小学生として集団疎開もしました。食べることがどれほど大切で切実な問題であったか、 身をもって知っています。私は親ゆずりの生まれついての食いしん坊です。集団疎開に行ったとき、意地が汚いと、悪い生徒に入っていました。
 日本が高度成長をとげる前の時代にアメリカ暮らしをしました。昭和30年代の前半です。みなさんもご存じのローラ・インガルス・ワイルダーの 「大草原の小さな家」のさらに前の「大きな森の小さな家」の舞台だったウィスコンシン州にいました。冬は零下10度20度があたり前の地域です。 高度成長前の時代ですから、車なんか持てません。私の夫は学者でしたから、冬ごもりのような生活をしていました。 そこで私はいわゆる生活史にあたる本を読みました。
 そんな過去の体験を生かして小学校の子ども達にどういう授業ができるかいろいろ考えました。すぐに私は、根本的な、 命を養うものとしての食の話をしようと思いあたりました。すでに、服部先生をはじめ諸先生方が、健康と栄養という問題から「食育」 という授業をされていられます。もし、私が食で授業を展開するのなら、どんな形で皆に学んでもらうのか、 子ども達が私の授業を聞いた先に何を見るのか、考えました。そして、子ども達と分かち合える問題にしようと思いました。
 人間が昔からどんな暮らしをしていたのか。昔の暮らしは食べることで精一杯です。 生きていくために食べものを求めるのが仕事という時代が長かったわけです。 そういう日々の文化人類学的なものを子ども達にわかりやすく説明できないか、文部科学省のいう「生きる力」や「生活」 という抽象的なものではなく、具体的なもので分かりやすい話をしようと思いました。
 そこで、子ども達がよく食べている素材、米やトウモロコシや鶏やキャベツなど、ひとつを切り口として、目の先に見えるもの、今の生活、 昔の生活を語るという語り口を考えつきました。
 さらに、私の話をヒントにして子ども達に自主学習もしてもらえます。最近はインターネットで子ども達が自主学習をしています。 図書館も充実しています。調べ学習は十分にできるはずです。
 その「素材」が世界でどんなふうに食卓に並んで、どういうふうな世界の位置づけにされているか、 どんなふうに人間に役立ってきたかを話し合います。最後に、私の話をふまえて、子ども達がひとりひとりが一生懸命考え、日本だけでない、 あの社会、この社会、つまり、クロスカルチュラル、文明が交差した、文化が交差した料理を作ってもらう、という筋書きを考えました。
 これをたったひとつのユニークなスタディ、 One and Only Unique Study と名付け、学校に提案しました。
 私はこの授業をするために少なからずの本を読みました。それで、校長先生にできそうですと話しました。私はてっきり来年の春、 つまり2002年4月からだと思っていたのですが、校長先生はすぐにやってくださいということでした。
 小学校の子ども達に教えるなどということは生まれてはじめてのことです。幸い私の娘が教員の資格を持っていて手伝ってくれました。 それでふたりしてでかけました。
 子ども達に新しい知識をふるまって、それからどうしようと思っていました。
 私は偶然の運に恵まれた人間だと思っています。長年つきあっていた日本経済新聞社の記者をしている友達が偶然に電話をかけてきて、 「あなた何か新しいことに取り組んでいないの」と聞いてきました。前には、私の家で太陽光発電を導入したこともあり、 何か新しいことをやっているのではないかと電話をかけてきたようです。そこで、「総合的学習のお手伝いをするのよ」と話をしたら、「食でやるの」 「はい食でします」「それについて書いてください」ということで新聞記事にも書きました。ここで私は「物語を通して子どもに伝える食」 としました。「物語」と表現したのは、それが子ども達への愛情だったのだと思います。自分がさえない小学生、中学生で、 勉強もあまり好きではなかった、そんな時代を考えますと、その時代から何十年たっても私の中で消えないのは「物語」なんです。 知識として教えられたことは、何年かで忘れてしまいます。残っていくのはほとんどが「物語」であり、忘れません。それをばねに世界が広がります。
 私がどのように物語を話すかと言いますと、まず、ひとつ素材を選びます。先生方と話して、トウモロコシにするか、お魚にするか、 キャベツにするか、考えた末、日本人だから米にしようと決めました。
 米は主食ですから、子ども達が学年ごとに勉強しています。社会の学習でもやっています。説明も聞いています。稲作りもしています。 それなのになぜ私が米をとりあげるか、これは大変なことです。そのために私はまた本を読みました。 時間は自主学習を含めると11時間におよぶもので、それを配分し、プログラムができました。
 まず、私と娘が行って、私が米の話をします。そして、子ども達が自主学習をして、料理をつくります。
 話の内容は外国の学者が書いた話をヒントにしました。「ある民族が米を主食にすれば、その民族は米に支配される」 という意味のことが書いてありました。社会の春夏秋冬は米作りが中心となり、地域の経済、政治、酒造りというように日本もそうです。封建時代の 「石高」も、「票田」という言葉もあります。山形の「民田なす」の「民田」が意味するのは何を差すのでしょうか。人を指すのにも「新米」 などと言います。言葉にも「米」が非常に多用されています。その学者は、「米はそれ自体が専制君主である」と書いています。 「米作りをいったんある民族がはじめると、絶えない労働に支配され、米に支配され、それを食べて、死んでいく」とも書いています。 そういうことを考えながら、11種類の米を用意しました。
 京都にいろんな米を売っている米屋があります。私自身もアメリカのワイルドライス、米でない米を用意しました。シリアからくすねてきた米も、 餅米も、玄米も、七分づきも、黒米、赤米、緑米など11種類の米を学校に持ち込みました。
 それを見て、子ども達は「わあっ」と歓声を上げました。「ひやあ」という驚きの声の方が本当かも知れません。たいへんな反響がありました。 米がこんなに種類のあるものかとはじめて知ったようでした。
 次に棚田の美しい風景をあちこちグラビアで探して、見せました。日本の民族主義的な学者の中には 「このごろ棚田をライステラスと英語で呼んでいるが、どういうつもりか」という人がいますが、英語の Rice terrace という言葉は何世紀も前からあります。棚田は日本の風景だけではありません。 世界で一番ふるい棚田が今も残っているのはフィリピンのルソン島です。2000年前から、今も現存しています。 写真はいくら探してもありませんでした。山の上の1300メートルぐらいの所から地上まで人間の手で作られていて、 保水性の高い石で囲った棚田だというのです。これを西洋の人がながめて驚いてライステラスという単語ができたと、 これもむかし物語のように聞いたのです。この棚田は、世界の不思議のひとつとしても上げられています。
 その話を子どもにしますと、また「ひやあ」という声が出ます。
 私は、その風景写真を見せられないのが残念です。旅の出版社などに頼んでみても、ありませんでした。見せられないのが残念だと話して、中国も、 インドも、アメリカの飛行機で種を蒔くような田んぼも少し詳しく説明しました。
 そして、料理の実習も、日本だけでなく、中国も、インドも、韓国も、東南アジアも、アメリカも入れてね、と話しておきました。
 その前に、発表会もあったのですが、それまでに子ども達から「どこどこの米作りを教えてください」とたくさんのFAXがありました。 私はそれに精一杯答えました。
 子ども達はたいへんな思いをして発表しました。発表会に私は感激しました。子どもの好奇心をかきたてるとこれだけ反応してくれる、 そのすばらしいサンプルになりました。
 さらにおかしかったのは、クロスカルチュラルな料理です。子ども達に何種類か米を渡しておきましたら、いろんな例が出てきました。 5種類の米を全部一緒にまぜて炊いてチャーハンを作る。キムチを入れて、ちょっとカレーを入れて、エビを入れて…それでクロスカルチュラル。 すごいのは、クレープを焼き、何種類かの米で長細いおはぎのようなものをつくり、クレープにまいたもの。 クレープにはあんことクリームが入っていました。「先生食べて、先生食べて」と持ってきます。何班かに分かれて料理を作っていますので、 その日は全部食べてたいへんでした。
 先生や子ども達に聞いた後日談ですが、米についての資料が足りない、ろくに参考書がない、図書室の司書の先生に 「日本人なんだから米についての資料をもっとそろえてくれ」と言ったんだそうです。私は近年めったにない幸せな気持ちになりました。
 そして、次に魚の授業を企画しました。魚と鯨と海という切り口で語っていただこうと、「ウィメンズ・フォーラム・魚」 の白石ユリ子さんにお願いしました。白石さんもたいへんにハッスルして下さり、 私の申し上げたような展開で魚と鯨と海について話してくださいました。そして、調査捕鯨で獲った鯨のサンプルを持ち込んで竜田揚げを作って、 鯨汁をふるまっていただきました。
 この授業は、小学校と三鷹市教育委員会が何年かの研究発表をする日でした。全国から人が集まり、文部科学省からも参加者がありました。 この魚と鯨と海の授業で驚いてくださり、そして、鯨汁などで驚いていただき、文部科学省の方には「この学校は役所が考えている先を行っている」 とほめてくださったのです。
 この授業は私だけでなくて、栄養士の先生、調理員の方々、受け持ちの先生が次々と考えついて、 その一端を私がこんなふうにしたらとお話しするにしても、多くの方が展開していかれるものではないかと思いました。
 学校給食の場を生かして、この授業を、授業というより「物語」を給食の時間に加えてくださったら、それがどんな話し手であっても、 子ども達の前に実物があり、それを子ども達の口から入れてしまうのですから、どんなに伝わりやすいでしょう。 一体化する物語として私は学校給食の時間をこういうことに使えば、ただ、早く、残さずに、好き嫌いをせず食べなさいというだけでなく、 どんなに豊かなものになるだろうと、手前味噌ながら思います。
 私の本題に入りたいと思います。
 私は三鷹市の給食、授業参観をして、1年に何校も、ある年は小中あわせて21校全部をまわったこともありました。5~6校で試食をして、 栄養士の方にお話を聞き、調理員の方にもご挨拶をして、教育委員会事務局の説明も聞いてきました。 毎月の月例報告で耳を傾けるべきこともあります。
 私には30代、40代の子どもがいます。この子達が小学校のころにあった給食に比べれば、現在の給食は内容的には非常に充実しました。 栄養面でも整っています。伝統的で民族的な面でも心がけるようになってきて文化の面でも相当に気を配られていますが、 よりよい質の給食を提供することに励んできたシステムが、子ども達の救済というようなことになっています。 かつては家の中で食の知識が教えられていて、栄養やこれがどういう労働で作られているということは食卓で語られていたことです。が、 それが語られなくなっています。子ども達は食をみて、パッケージを開けてそのままだしてくれたのか、家ではすぐにわかりますが、 給食だって調理員の方がつくっていらっしゃるたいへんな労働をもしも見なければ、これは分からないわけです。個々の対応は、 全国いろいろと差があり、万全とはいえません。この問題をどう解決していくのか。
 地域の野菜をできるだけ使うとか、そういう取り組みも三鷹市では行われています。 食器の改善も財政に応じて安全を点検しながらなされつつあります。三鷹市はレベルが高くてめぐまれた方なのかもしれません。 民間に委託もしていません。もし家庭の中で買ってきたお総菜やスナック菓子しか与えられない子どもがいれば、学校給食は、 子ども達の栄養面で欠けるものをおぎなうような、そういう役をはたしつつあると考えます。 学校給食の持つ意味は現代ではさらに深くて重くなりました。
 家庭の背景を考えてみますと、子どもは学校給食だけで育つわけではありません。日本の子ども達は、 家庭の食卓で誰が作ったどんなものを与えられて、どんな話を親から聞いているのか、さらに、何を考えながら彼らは座って食べているのか。 先日もNHKのテレビで子ども達がひとりで食べている絵を描いている絵がとても多く、切実な願望として、家族一緒の団らんみたいな絵もあって 「こうなったらいいなあ」という絵だとの説明がありました。
 食卓というのは、単に食事を並べる台ではなくて、大きな役割を果たしてきました。 家族の中で子ども達の心身を養い親が子を社会に送り出すために必要な、生きていく術のヒントを与え、人間としてのマナーをつくる場、が、 家庭の中の食卓だったのです。それが今消えつつあります。その役を学校がしょわなければならないものでしょうか。学校も、たしかに、親のかわり、 家庭のかわりをすることができるのですが、双方が子ども達の明日を考え、このことについて深く改善していく問題だと思います。
 子どもが産まれてから18歳になるまで、見るもの聞くもの、すべてを教育としてそれを100%とすると、学校教育はそのうちたった9% でしかありません。これはアメリカの学者から聞いたもので、日本でも確かめてみました。やはり日本でも9%ぐらいの数字だという確認を得ました。
 日本では何か、青少年の凶悪な犯罪などが起こると原因追及のほとんどが学校教育に向けられます。しかし、あらためて考えてみれば、 親たちによるいたいけな幼児殺しとか、年ゆかぬ少女の売春とか、これは学校教育のなせるわざではないでしょう。 家庭環境をつきつめて考えてみれば、食卓に問題があると思います。
 子ども達は親や環境を選んで生まれてくることはできません。これは不幸な子ども達にとっては本当に気の毒な問題です。 食卓がいかに大切なものか、みなさんはよく分かっていらっしゃると思います。他の動物と違って、人間は、 獲得した食糧をねぐらに持ち帰って仲間と分かち合う習性をはるか昔に持っていたわけです。現在という時点だけでなく、 未来まで想定することができる動物になりました。食のために計画性を身につけたとも言われています。 さらに食を得るための労働をいとわない動物になりました。食の分配をめぐって家族が成立し、親族ができたというわけです。
 人間は、食べている間、食卓で言葉を生み出したという人がいます。ヒトが人間に育つ場所は食卓だと文化人類学者は言うわけです。
 食卓がもたらす、くつろいだ、満たされた気持ちというのが、空腹だけでなく、人間の精神も満たす、渇望、 いろいろな想いまでも満たしてくれるものであるということです。
 家族の中に、子どもとして生まれ、人間として成長するには、長い年月がかかります。はじめは母乳、乳を母から与えられ、 やがて乳にかわる食べものを母親から与えられて子どもは育つわけですが、ただ、乳と食物を与えられていれば、栄養万全であれば、 その子どもはすくすくと育つのでしょうか。次のような観察の記録があります。
 古い例ですが、イギリスの精神分析医でルネ・スピッツという人がいます。この人が、 第二次大戦前後ですがロンドンの乳児院における観察研究をしました。友人の心理学者に聞いた話ですが、 当時の乳児院の子は孤児あるいは親が面倒を見られない乳幼児であり、ただ物理的に食物を与えられ、おむつをかえられているだけの乳幼児は、 抱き上げられて、言葉をかけられ、ほほえみを与えられた大人が接している乳幼児と比較した場合、 精神的にも肉体的にも発達が非常に遅れるというのです。さらにショックなことは、 スキンシップを与えられなかった乳幼児は死亡率さえも高いというのです。
 この例を現代でこそみなさんにあらためて考えていただきたいと思います。
 子どもの命を養う役を果たし得ない、それは愛情がないからなのです。
 日本では人間が生きていくために必要なものを「三大要素」として教えられます。「衣食住」と家庭科かなにかで習ってこられたと思います。
 あるとき、この三大要素が西洋にもあることに気が付きました。西洋では、「三つの基本的要求」とよび、 人間に生きていこうという意志を与えるものとしています。それが、今回の講演の題である「食・ねぐら・愛」です。 日本の衣食住から衣が抜けていますが、ねぐらというのは、自分を保護するものですから衣も住も入っていると思いますが、 日本の三大要素の中には愛がありません。愛は目に見えないものですが、キリスト教社会だからあたりまえよということではないと思います。
 日本の三大要素はぜんぶ物質です。この三大要素が西洋から輸入したのか、前からあったのか、そのあたりのことはつきつめずにいますが、 すべて物質だということが気にかかります。もしかしたら、日本には愛という観念はなかったのだろうかとも考えました。たしかに、 私たちは口に出して I love you とは言いませんよね。夫婦の間でも、恋人の間でも、これまでは言わなかった。ましてや親子では、 親が子に対して、子が親に対して I love you と言うでしょうか。西欧ではよくみかけます。 I love you と言って親が子を送り出す。子どもも親にそれをかえしています。これは口先だけでしょうか。そうではなく、 親子の絆の確認であると思います。先生との会話の中でも、 I love you、小学校でアメリカなどでは差別があってはいけないので、 クラスの全員が全員にバレンタインカードを書くのです。ですから、愛というのが人間を生かすものであるというのが、 キリスト教であるなしに関わらずしみわたっているのだと思います。私たちはそれに気が付かないできたのですが、実は愛は持っていたのです。 愛という意識が日本人には薄いのかと言えば、そうではないのです。
 京都の国立京都病院医長をされていた石田勝正先生は、心療科の先生でもあり、「生きる原点」というミリオン書房から出された本の中で、 「愛とは親や肉親あるいは集団や群に結びつけるために自然が高等動物に与えた本能」だというのです。つまり、 子どもをどこかに所属させるために考えついた一種の本能なんです。愛はその本能をもとに母親や父親から教えられる脳の活動だというのです。 母が死んでしまったという子はいますが、母親がいない子、というのはありません。ですから、母か父か、 そばにいる人から教えられる脳の活動であり、愛がなかったら集団の中で互いに生かしあうことができないので、その種族は滅びてしまいます。
 集団の中で、互いに生かしあうことができない、殺す少年というのは、幼児の時代に父親、母親、家のなかで愛を教えられる機会のなかった、 不幸な少年で、脳の活動が愛を受け入れることができないようになってしまった人間ではないかと思います。
 私が70年に近い生涯をもって観察しますと、愛は食卓とわかちがたく結びついているものです。 ねぐらの中の女性達がもっぱら担ってきたと思っています。
 近代以前の生活は、食べて生命を維持することが家族の最重要課題ですから、男性が食べものを獲得してきており、 その役割は大きなものがありました。男性が食べものを調達してきて、女性がこしらえる。
 ローラ・インガルスの父さん母さんの生活を見ていただければそれがよく分かります。19世紀の西部の暮らしは、 男女共同の作業の上に成り立っていたことがよく分かりますが、これはアメリカの西部だけではありません。その後工業化の時代が来ると、 男性達は外へ出て給料をかせいできて、それで食物を獲得するという役割になりました。 家族の中のワークシェアリングはついこの間まで続いてきたわけです。しかし、子どものかたわらに四六時中居続けた女達へ、 家事の重みはぐっと傾いていました。西部の時代のことわざに「男の一日は日の出から日没まで、女の一日には終わりがない」というのがあります。 この間まで、アメリカの西部だけではなく、日本だってそうやって暮らしてきたのだと思います。私の目の前には母親の姿が浮かんできます。 子どもといわず、家族全員の世話を焼いた生涯でした。
 当時の女の仕事は家族の命をあずかる、人間が生きていく基本のいちばん重要なものを女が握っていたのです。ですから、「命あずけます」 という言葉は、やくざの言葉だと思われているかも知れませんが、私の父などは、「女性に対する求愛の言葉だ、 それに感激して結婚する女は大勢いる」と言っていました。私の母などもそうして結婚したのかも知れません。
 彼女の力いかんで、家族は生きたり命を落としたりしたのです。戦争中の暮らしをみているとそう思います。「男の一日は日の出から日没まで、 女の一日は終わりがない」というのはどの社会の中でも真実だったと思います。女性にそもそも我が身よりは我が子を、 家族を愛するという愛情がなければ人間社会は続いてこられなかったのだと思っていましたら、先ほどの石田勝正氏の別な本「心ってなんだろう」 の中に「母性愛こそが人類の鍵を握っている」と書かれていました。実は母性愛の中に人に尽くしたくなる心、かわいいものへの集中愛、 初期育児での母子癒着などの特徴があって、生まれてきたばかりの子どもが母親との密接な母子関係に満足すると、 子どもはやがて自分も他も愛することのできる安定した人格に育つのだそうです。母子癒着、母なのです大切なのは。私は日本を憂いながら、 その一方で一度は家を出ていった30代、40代の子どものご飯をつくっていながら、女の一日は終わりがないどころか、 女の仕事は一生終わりがないのではないかと、思っている古風な人間です。
 今から20年前にするどい言葉を言ったアメリカの女性がいます。80年代は女性の立場が従来のものでなくなりました。 外食産業が女性の社会進出を支えるために大きく多様化して、いろいろなものがでてきました。できあいのお総菜を買ってきて、 食べるというのも外食と考えますと、そのあと5~6年、つまり85年ぐらいになると、アメリカ人の家庭は、 4回に3回は外食になるとされていた時代でした。その中で、この女性、フィッシャーという作家は、「女性の愛の形が変わると、 社会の食べ方が変わる」と言いました。今、まさに日本がそういう時代になってきているという実感はみなさんもお持ちでしょう。
 家庭の中で食をつくり連綿と家族の面倒を見続けてきた女性達は、かつてはそれが美徳と言われましたが、 その習性が自立を妨げるものだと言われるようにもなりました。フェミニズムの方達などは、家にいて家族の面倒や子どもをみていたのでは、 税金も納められないし、国にとって不経済だという人もいるのですが、つくづく考えてしまいます。
 子どもはどうなるのでしょう。女性の社会進出は、当然のライフスタイルになりつつあります。もちろん、 女性の自立性と新たな生き甲斐を提供することになりました。一家の古い形でのワークシェアリングがここで変わって、 男女2人が家計の分担者になった社会、新しい文明がはじまりました。この中で先進国共通の誰が家族の食を作り、誰が家族の食を守るのか、 という問題は、外食産業が、誠心誠意良心的な存在であるとしても、未解決な問題として残るのではないでしょうか。
 子どもは食卓で育つと言っても過言ではないのです。ですから、学校における食卓、学校給食が非常に大切な意味を持ってきました。
 子どものよりよき食生活に対して、積極的に提言して取り組むことのできる目や、勘や、判断を保護者が持っていないとすると、 子ども達はどこで学習するのか。家庭にももう一度目をこらして考えて欲しい一方で、学校給食に、 今欠落した部分を補うにあまりある力を発揮してほしいと思います。
 学校給食をさらに向上させて、いろいろな多様な対応がとれるようになる。現在、 素材は一応安心であるというところに誰が目を光らしてくれているのかと言えば、調理員であり、栄養士であると思います。けれども、 お母さん達の方からそのことに対して何か要望が上がっているのでしょうか。三鷹市の事務局に聞きましたら、保護者が畑を見せて欲しい、 この農家がどういう肥料を使って生産しているのか見学させて欲しいという声はひとつも上がらないということでした。ですから、今、 子ども達の食卓はあなたまかせにされているわけです。日常生活の中の食だってそうなのですから、 ましてや学校給食になにかを提言するというのはなく、問題が起こってから糾弾するだけです。でも、それは保護者自身の責任でもあるわけです。
 学校給食をさらに向上させて、素材は限りなく安全で、無農薬で有機農法で健康な畜産物で保存料を含まない調味料でつくり、味わいも優れている、 そういうものに食がなるのは望ましいことですが、栄養士や調理員が努力するだけでなく、保護者もその努力を怠っていってはならないわけです。
 子どもは給食だけで育つわけではありませんが、現代では、 給食はかつての家庭で食卓が果たした役割の肩代わりをしなければならない時代が来ています。
 子どもの食べものに対する知識、食べものの向こう側に見える世界、そういう限りないものが広がるには、 学校でいろいろ語られることが大きな意味をもつことになりました。栄養士だけでなく、調理にたずさわる方々も、 同じような気持ちで子どもに接しているわけですから、その方達の活躍の場を私たちは考えなければなりません。
 子どもが社会に生きるルールをどこで学ぶのか、先生だけがそれを教えてくれるわけではありません。これからは、先生も保護者も、 給食にたずさわる人びとも、学校教育に関係するすべての人びとが一致してその方針を立てていかなければなりません。
 かつて、子どもは食卓で親と会話することで他と対話する形を覚えました。食卓で家族における自分の位置を知って、社会における家族の位置、 地域社会を知り、母親や父親、家族の愛情によって選ばれた食物で自分は成長し、親や保護者の持つ社会の常識によって子どもの判断力が養われ、 備わり、その力で子どもは社会の一員として生きていくすべを知るのだ、と私は思っていました。しかし、いまや、 そういう環境がくずれているのです。
 したがって、この問題は家族の中で考えるとともに学校にも要望をだし、学校給食の形を、食卓の持つ意味を深くとらえた質の高いものに、 これは食べものの質だけでない、そういうものに反映していかなければならないと思います。学校給食がこれから向上することは、 子ども達の力でもあり、保護者の力でもあり、それにたずさわる地域の方々の力を反映するものです。 これから育っていく子ども達の危機を救うために、家庭、学校、地域が協力しながら、食を切り口にして(なぜなら、 食が一番浸透しやすくお話にもなるからです)子ども達自身の力を高めていきたいと思っています。

 

 

[ 02/02/25 集会案内 ]


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